象徴交換と死
労働者はもはや人間ではなく、男でも女でもない。労働者はそれにふさわしい性を持っている。(P.38)
前に紹介した「消費社会の神話と構造」が、文字通り消費についての社会分析で、今回紹介する本書は、生産についての社会分析である。記号を消費するのが消費社会なら、記号を生産するのが生産社会の本質であると言うのが主題。
諸記号は、もはや実在と交換されないという条件付でのみ、相互に完全に交換しあうのである(P.26)
このような状態下において、無限の生産が行われだす。いわばマスプロダクト社会の本質をついている。実はそのようなマスプロダクト社会において、もっとも遊離した記号である貨幣は
貨幣はもう商品ではない。貨幣の中には使用価値も交換価値もないからである。(P.59)
となる。現代の諸矛盾の基礎ともいえる認識だ。ところが、人はその貨幣に使用価値と交換価値を見出し続けるがゆえにつらいと言うのが本当のところだろう。労働者はその貨幣を求めて
ひとはより少なく労働するに応じて、高賃金を要求するに違いない。(P.54)
「スト期間中の賃金を払え」というのはつまるところこうなる―ストのためのストを再生産できるように支払いせよ、と。(P.70)
とやるが、結局貨幣に固執することによって自らを記号と堕してしまう。しかし、その幻想は破綻をきたす。その前提が
前代未聞の在庫と、消費した分だけ魔法のように再生産される原材料の幻想、つまり、それゆえ途方もない浪費の幻想(P.464)
というものにあり、この無限の原材料というのは現実には存在しないことが、今明白になっているからだ。実在と遊離した記号という幻想こそが、今壊れてきている。有限のものと、そのものを基盤にした有限の記号。これらがどうなるかを考えていくことが大切なのかもしれない。
普通選挙は、最初に出現したマス・メディアである。(P.155)
産業による汚染と変わらない、そしてこの汚染と同時代の出来事である、記号による途方もない汚染がおこなわれているのだ。(P.467)