人権としての児童福祉と労働―実践のための児童福祉論をめざして 総論編
国が定めた措置費では労基法を守ることができない(P.116)
厚生労働省の助成金に関する申請書の中で、普通に申請用件どおり計算したら最低賃金を普通に割っているという事が往々にして起こっていたりする。まぁ、この本の時代は、厚生と労働が別省庁だったけど、一緒になってもその矛盾はそのまんま。せっかく垣根がなくなったんだから、そういう部分だけでもシナジーを出して、シッカリやってほしいところではある。
まぁ、この本自体は、そういうことに主眼があるわけではなくて、児童福祉に労働として携わる人の労働実態についての本。労働の内容やら報酬に関する話やらと、多岐にわたる。
とはいえ、営利育て関連事業の法人が少なかった頃の話なので、なおのこと、公的施策の話になる。
日本の国内法制に対する影響を排除または最小限化するための消極的発言から構成されている(P.71、子どもの権利条約作業委員会での日本代表への評価)
なんせ、こんな情けない国家がやる、児童福祉における予算措置なんだから、そんなものたいしたことがないのは、まぁ、当然ではある。が、そういう労働環境のことをとやかく言ったからと言って
人権、権利という言葉を避け、その言葉を使う人を「アカ」とレッテルを張り、異端者として特別視してきた(P.60)
と言うことはないと思うけど。それこそアカの皆さんの被害妄想でしょうが。僕は歩くレッドパージとまで言われてますけど、人権も権利も子育て関連施策批判もガリガリしております。確かに、短絡的な労働者市場という概念によって
「資本主義は労働者と勤労農民とのあいだにひそむ幾多の人材を圧殺し、おしつぶし、打ちくだいた」(P.99)
という現状はある程度存在していて、中間的労働形態を適切に創出できていないことは確か。でも、そういう労働市場の創出が難しいのは、労働基本法というアカな人々の金科玉条によって、そういう中間労働形態を用意できない方向になっていると言うことも実際にある。
資本主義の責任で起こってしまう子ども阻害は無視はしてはいけないのは確かだ。
資本主義社会の労働者家族が生きていくために、家計を出来るだけ節約し、家族の中でできるだけ多くのものが働くことによって(多就業)収入を増やし、子どもの数を抑えて我慢し、高齢者を世帯の中から弾き出してしまう(P.24)
と言うこともある。が、結局大人都合のイデオロギー闘争では何にも解決しないって事。マジメに、子どもの現実に向き合うことがまずは第一歩なんだろうなと。
以下はメモ残し。
「ポストの数ほど保育所を」(P.32)
子どもが「食べる」という行為は子どもの「食べる」と大人の「食べさせる」との相互関係(P.40)
原っぱはビル建設によりなくなり、道路や路地は交通が激しくてそこからも追い出され、子どもたちは遊ぶ空間を奪われ(P.48)
人間を分割不可能な単位とみる(P.109)