日本博物学史
昆虫学を修めたければ、害虫防除に興味がなくても、農科系に入学せねばならぬというのがこの国の現実である。(P.216)
かなりどうでも良いのだが、よく知っている研究者が昆虫の研究室にいて確かに農科系にいたよなぁと。近視眼的な有用性だけで研究ジャンル構成が出来ているのは日本の特徴かも知らんなと。
それはさておき、この本は、一応、科学としての博物学ということをもちだしてその発達史を論じているわけなんだけれども、先に批判的に紹介してしまった村上氏の爪の垢でもせんじて飲めとか言いたくなる。
朱子学に体系化された陰陽五行説が科学思想と相容れないのはいうまでもなく、かえって科学思想に悪い影響さえ及ぼした。(P.69)
そもそも、この時代における科学というものは何ですか。ついでに言えば、科学というのはあなたにとってなんですか。まさに、一方的な進歩史観のおしつけで知識ひけらかし的な内容。というか、人物やら内容まで博物学的コレクション。適切な系統提示には見えません。あくまでも、現在の博物学といわれるものから見て、都合のよい並べ替えだけにしか見えません。なので、
『大和本草』をもって、日本の博物学はその第一歩を踏み出したと見るのである。(P.67)
というのも、どうですか、とか疑ってかかってしまう。なんというか、唯我独尊的な空気ぷんぷん。
博物学にとっては、プロフェッショナルとアマチュアとの一般的区別は必ずしも必要ない。どちらも、その好むところによって科学的な仕事にしたがっていることに変わりがないからである。(P.91)
そんなもの、博物学以外の科学ジャンルの進歩においては尚のことだ。あんたたちの学問ジャンルだけではない。なんだか、博物学帝国主義的な空気を感じて好きになれませんでした。
とはいえ、どうも、ぼくの嫌いな本は市場価格が高くつくらしく、このほんも、買った価格より中古市場価格の方が高いという始末。まぁ、その程度の選定眼しかない人間の繰言といえばそれまでか。
「つまるところは数年の修練によって許すことです。金を出せば許すというものではありません」(P.166、蘭山の手紙)