ハイパーテクスト―活字とコンピュータが出会うとき
最後の言葉はない。決定版も最終的な思想も存在しえない。つねに新しい視点があり、新しいアイデアがあり、再解釈がある。(P.102)
最近、ブラウザがお利巧さんで、頭に「HTTP://」と入力しなくてもWWWを見ることが出来るけど、実際WWWの世界というのは本来的にはHTTPという略語に示される「Hypertext Transfer Protocol」のように、どどのつまり、ハイパーテキストから成立している。
んでは、そのハイパーテキストとはなんぞやということをWWWから切り離してテキストの側面から論じたのがこの本。
ハイパーテクストの基本的特質のひとつは、それが基礎的な構成座標軸を持たないリンクされた複数のテクストの集合体で構成されているということだ。(P.24)
テキストを生み出されるたびに、そして読み手が個々が中心と決めたところから話が始まるという特性と、はじめに引用したように、テキスト全体の集合自体は永久に終わらない空間。そういうある面で無限の可能性を持っていたのだ。その空間から一部を切り出す
この能動的な読者=作者というものは必然的に、誰か他人から、別の作者(たち)から断片を借用して意味や物語を構成した、あの吟遊詩人と似ている点が多いと思っていい。(P.198)
と、テキストの側面から見ると優れた夢を示していたが、実際今現在のWWWはそういう観点は息を潜めている。それは死に絶えてしまったのか息を潜めてその可能性がいつか飛び出すのかはなんとも判断はつかない。20年後ぐらいに読み返すとその辺の判別はつくかもしれない。