消費社会の神話と構造

消費はひとつの社会的労働なのだ。(P.106)
消費とは組み合わせ遊びへの熱中のことであって、情熱とは両立し得ないのである。(P.160)
消費の主体は個人ではなくて、記号の秩序なのである。(P.304)

この消費社会に生きる現代人は必読といえるだろう。自分がやっていることの実態は何なのか、ということを、この本に同意するにせよ、反発するにせよしっかり考えるいい契機になることは間違えない。
ぼくらはモノの機能を求めて消費するのではなく、モノが持つ記号と、その記号における差異化を求めて、そしてその差異化を永久に続ける社会システムの一部として消費を続けるという、消費行為の本質をついた鋭い指摘に対して、ぼくらはなんと答えることができるのかがポスト消費社会を目指すうえで重要になる。そうでなければ、ぼくらは消費という社会労働を通じて社会システムの奴隷といわれても仕方がないのだ。

「あなたの自動車を壊しなさい。あとは保険が引き受けた!」(P.45)
健康を手に入れるには、引き換えに何がしかの代金を支払わなければならない(支払いさえすればよい)という根深い思想以外の何ものでもない。(P.206)

結局こういうマッチポンプで肉体ですら消費の一部で金と交換する記号でしかないような経済を構成するのが、消費社会の本質なのだ。消費を生むために消費をさせる。ひたすら金と記号を交換させる。で、そのうちモノが余り、余りの記号(=消費財)の氾濫に対し

「自動車を売ることの方が作ることより困難になった時にはじめて、人間そのものが人間にとって科学の対象になった」(P.85)

という状況で必要とされる科学、それがマーケティングというわけだ。ところが、著者はそのマーケティングの最大のツールと思われている広告を、唯一の心の逃げ道として定義をする。

広告のこの経済的機能は広告の社会的全機能の結果として生じたものなのだから、経済的機能だけを保証することは絶対に出来ないのだ。(P.251)

こうした生産、金、記号、広告、消費で構成される消費社会の構築はたしかに豊かさを求めて、行われてきた社会構築の結果ではある。だが、

いかに豊かさを誇ろうとも、モノは人間活動の産物であって、自然の生態学的法則によってではなく交換価値の法則によって支配されているという事実を決して忘れてはならない。(P.12)

そして、

豊かさがひとつの価値となるためには、十分な豊かさではなくてあり余る豊かさが存在しなければならず、必要と余分との間の重要な差異が維持されなければならない。(P.42)

という相対性のものでしかない、という事実が存在する。いわば、大昔であっても王侯貴族は豊かだったのである、つねに豊かさというのはその時々との余剰物の不平等の蓄積でしかないのである。裏を返すと社会全体として、社会を捉えると「豊かな社会」も「貧しい社会」も未だかつて存在したことはなかったし、現在も存在していない(P.54)のである。

ところがむしろ、現代の消費社会は激しく成長することで、この不平等を拡大再生産するシステムを持っていることで、成長社会は豊かな社会とは正反対の社会として定義されることにな(P.75)ってしまう。他方で、原始社会ではその際生産スピードが遅いこともさることながら、その仕掛けが透明である。

未開人の信頼を成り立たせ、飢餓状態におかれても豊かに暮らすことを可能にしているものは、結局、社会関係の透明さと相互扶助である。(P.78)

よって、このような社会の仕掛けを生み出すことができる。ちなみに、この辺のことは成長している地域に住むと異様に実感できる。
こうした成長社会において、我々はモノそのものではなく、記号や交換価値の中で生きている。最もわかりやすいのは戦争をTVで見るような状態である。

われわれは記号に保護されて、現実を否定しつつ暮らしている。これこそまさに奇跡的な安全というものだ。(P.26)

このメディア越しの視界のありようこそが結局のところ、万事の記号のありようなのだ。要は直接生のモノや情報をぼくらは見ていないのだ。それは本来、サービスではなく、人の心の中身であるべき、思いやりや相互扶助というものまで企業化し消費に組み込む。

「溢れんばかり」の気づかい、温かい「雰囲気」が自然発生的なものでなく制度的かつ産業的に作られたものである以上、それらの社会的・経済的本質がそれらの基本性格そのもののうちに現れないほうがおかしいのだ。いたるところで目につくのがこのひずみである。(P.245)

ぼくらは、こんな社会に疲れてしまっている。社会そのものが原因だから、ある意味現代の疲労には原因はない(P.280)のである。こんな消費社会のままでいいのか、ポスト消費社会を作るのかが現代人に問われていることなのではないかと、思わされる一冊である。