家庭のなかの子ども 学校のなかの子ども

安易な言説を批判するとき、批判自体がその対象に身の丈を合わせた安易なものとなっては、なにもならない。(P.32)

というのはもっともだし、特に程度の低い教育批判を相手にするときには気をつけるべきなんだろうなと。本書はどっちかというと現場弁護的側面を感じる書籍。で、こうした教育現場の崩壊は自然の流れとする考え。とはいえ荒唐無稽な話しではなく、結構ちゃんと論だてているので、うなづける部分は多い。
特に、

学校は本来の役割(社会の近代化)を終え、すでに後進性と古典的貧しさを脱した現代社会の中で存在の根を失いつつある(P.185)

というのは卓見で、だからこそ、

学校(公教育)の維持が、個々の家庭養育の<力>に依存せねばならない度合いが高まった(P.212)

という状況になっているという指摘は優れていると思う。とはいえ、

ことあれば、ささいな事柄までいちいち責任を求めたり、クレームをつける私たちの市民社会、つまりその社会をつくっている私たち自身の「意識」の存在をこそ自覚すべきだろう(P.203)

という、大人の無責任さの方向性を低く見積もりすぎている。現実問題として、公教育をぐっと縮小し、そのぶん得られた時間を用いて、多種多様な習いごとの場やさまざまなタイプの私塾を、子どもたちが自分たちの関心や能力や目的に適ったものを選んで(P.234)学べるようにしましょうと、ゆとり教育をしたら、公教育が何でもやれと大合唱が起こる始末。

どどのつまり、「学校の勉強は役に立たない」といいたがる、知に対する理解のない大人がどれだけ増えたかという証拠だ。著者も言うように教科書だけはもって逃げよ(P.173)なんて時代ではないのだ。ただ、著者も見誤っている

学校は小なりといえどもその地域社会における文化や知識の一中心たる地位を占めることもなくなった。(P.186)

ということはない。固定的な知を伝達する場としての学校に価値はないが、知を生み出すプロセスを伝授する学校にはいつまでも意味はある。だからこその産学官民の連携である。いわば、この著者をはじめとする「知への誤解こそ」が、学校を矮小化し、役立たず呼ばわりさせる元凶なのだ。

で、そういう感覚での無責任な家庭教育の成果物として

非行児たちは、真にあそんではいない。(略)あそびの虚構性を知らず、現実と混同してしまっている。(P.47)

というような、意志の力のない子どもたちが学校にき、j教育を破壊し、学校の勉強が役に立たないのではないかという感覚を生むという悪循環を作る。

ちなみに近代化しても、意志を作る夢はなくならない。夢の形は変わるが、そういう夢をもてれば、子供も大人も変わる。

そのような<夢>を学校が担いえたことが重要であった。(P.181)

その通りなのだ。どどのつまり、フロイトだのなんだの持ち出さなくても、近代とは違う違う現代にフィットした夢を担う場に学校が生まれ変わればいいだけなのだ。学校そのものだけじゃなくてそれを取り巻く大人もそういう風に変わらないといけないのだけれども。