草木虫魚の人類学―アニミズムの世界

いったい、人類学者の宗教研究というものは、虚構は虚構なりの整合性がありさえすればそれでよいのだろうか。カミ不在でも一向にさしつかえないのであろうか。(P.253)

構成的経験主義みたいな立場やらもっと過激にマッハ主義なんかの立場になれば、「はい。その通りです。人類学が科学ならね」というのが回答になるんだろうなぁ。仮に、実在主義者であっても、「うん。確かに整合性がありさえすればいい、というのは立場として弱すぎる。だが、神の実在は必要としない。他の何か構造なりなんなりが実在していればよい」ということだろう。
僕自身はどうしても、学問=科学と考えているので(人類学は人文科学という科学の一ジャンル)、この著者の迷い方はどうにも支持できない。やはり先のデュルケムの「宗教生活の原初形態」のほうが、科学としての宗教研究としては優れているといわざるを得ない。アニミズムやトーテミズムという比較的近いものを素材にしているにもかかわらずである。
とはいえ、社会科学と人文科学の違いはあるので、探求すべき対象や手法がずれてくるのは当然。それにしても、論点の途中までは比較的近いラインを歩んでいると思う。

虚構と現実は同根である。(P.159)

「虚構=記号体系」と「現実=実際の生活世界」を重ね合わせるという立場は似ている。が、カミではなくてカミの影、カミの代用品であったとしても、代用品は代用品なりにその役割を果たしているのであればそれで結構(P.230)という風にはならず、カミに固執する。まるで、光を伝える媒体エーテルに固執する昔の科学者のようだ。実をいえば、ここらで逸早くカミが誕生してくれるとありがたいのである。(P.122)という気持ちはわかるが、学問体系である以上は、そこに逃げてはいけない。

われわれの暮らしているところは、くりかえしていうが、妄想の世界なのだ。(P.293)

こういってしまえば、まさにその理屈の行き着く先は、ただの虚無主義であり、懐疑主義にしかならない。ようは、体系として不成立なのだ。とはいえ、こう思ってしまえばそんなことはどうでもいいのだろう。

文化は所詮、酒のなかの泡沫のように虚しい幻影にしかすぎないものだろうか。(P.83)

いらねー。売っちまおう。と思って、amazonの価格を見たら、中古のほうが元値より高い!普通にBOOKOFFに持ち込むのは躊躇しようかと。ほしい人いるんだな。