宗教生活の原初形態

今日、一種の特恵的な信用を得るために、概念が科学の捺印をおびているだけで、一般に、足りているのは、われわれが科学に信仰をもっているからである。(下P.360)

社会科学を科学たらしめんと努力をした、社会学者達の一人、デュルケムの名著。大学2年のときの演習のテキストなのだが、化学で卒業し、科学哲学で修了し、普通の社会人になっている今、読み返すと実に味わい深い。
端的にいうと、彼は、社会科学を科学たらしめるために、科学実在主義の立場を取り、社会科学上の理論体系が実在しているという主張を構成することで、社会科学は科学なのだと構成する。科学とは常に与えられた実在に適応される学問(上P.126)だと考えたのだ。そして、ひたすら観察するのではなく不明瞭で茫漠とした沢山の観察がただ混乱しか生じえないときに、独自の一事実がある法則を明らかにしうるのである。(上P.170)と考え、素材選定から行う。

その素材として宗教を選択し、自然科学的な観察の考え方で、丁寧に観察要素を決定し、原始状態の宗教を素定する。

宗教とは、神聖すなわち分離され禁止された事物と関連する信念と行事との連帯的な体系、教会と呼ばれる同じ道徳的共同社会に、これに帰依するすべての者を結合させる信念と行事である。(上P.86)

そのもっとも単純なもので現存するものをトーテムミズムとした上で、丁寧に解析していく。その姿勢はどれだけ奇異に思われようとも、原始人は一つの論理を持っている。(上P.316)という考え方にそって、また同時に原始人にその精神の範囲を超えた諸観念を提供することになりはしないか(上P.345)ということを配慮しながら、丁寧にオーストラリアのトーテミズムを考察していく。

その考察から、宗教を記号によって構築された世界であると喝破する。

記号が宗教生活の著しい源泉だからである。(上P.400)

しかしながら、その記号世界が現実世界と遊離しているのではなく、

宗教的なものの世界は、経験的性質の特殊部面ではない。それはここに重ね合わされているのである。(上P.411)

と、かんがえる。まさに、セラーズとフラセンの科学という記号世界と現実世界の関係性に関する実在論的論争を髣髴とさせる。そこに十分にコミットしているからこそ、それは実在であり

一つぐらい旗が敵の手に渡っていようといまいと、祖国がそのために失われることはない。にもかかわらず、兵士はそれを奪い返すために殺されることをも厭わない。彼は旗が徴に過ぎないこと、それ自体は価値をもたず、ただそれが表象する実在を想起させるだけであることを見誤ってしまう。あたかも、それがこの実在であるかのように遇するのである。(上P.397)

このような行動を生み出す。したがって、

道徳的威力の存在を信ずるのは、誤っているとはいいえない。すなわち、この威力は存在している。それは社会である。(上P.405)

といえるのである。まさに、社会科学実在主義者の主張なのだ。しかしながら、社会を構成する諸概念は経験から遊離していないというだけの論理体系で十分なのだという論法も成り立つだろう。それであっても、彼の主張するところの、社会観は非常に価値のある見方だろう。

社会は、人が余りにもしばしばそうみなしがちな、非合理または非論理的な、連絡のない架空の存在ではけっしてない。(下P.370)