家族崩壊と子どもたち

子どもの非行を云々する前に、大人の非行をこそ云々したいと思うのだ。(P.49)

15年前の本。結局、この15年間、大人の非行は云々されなかったということなんだろう。

近代化の過程の中で、生産的機能は工場へ、教育的機能は学校へと委譲され、家族に唯一残された機能は、「夫婦および親子の間の感情的絆」だけであるという現実(P.87)を僕らの祖先は生み出した。これは、決して悪い話じゃなくて、きっと、教育とか生産とかそういうことに向き合う時間を減らし、家族、親子がそのまま向き合う時間を創出するための工夫だったのだろう。が、家族崩壊というのは、その近代化の価値をわからぬ人々が、家族のため、親子のためではなく、近代化が生み出した時間を無制限に自分のために使った故に起きた悲劇なんだなと思う。
子供のため、家族のための時間を自分のためというエゴに使ったおろかさの結末に過ぎない。が、この堕落が一代ならよい。

子どもたちの「堕落」は所詮、大人たちの「堕落」の反映に過ぎない。子どもたちの「堕落」を問おうとするならば、まず大人たちの「堕落」をこそ問わなければならない。(P.56)

こうした堕落が結局、この繰り返しで、何代も続いていく。にもかかわらず、家族というのは幸せの源泉であるという幻想は続いている。

誰も不幸になりたくて「家族」をつくる人などいない。みんな「幸せ」が欲しくて「家族」をつくる。(P.122)

が、度々のつまり、家族が幸せの源泉なのではなく、ましてや、家という建屋が幸せの源泉ではない。にもかかわらず

こうした「家」さえ手に入れることができたならば、「幸せな家庭」をつくることができると考えたのではないか。(中略)その錯覚を私は笑うことができなかった。(P.129)

と、大人たちはおろかな行為を繰り返す。財布を買ったら財布に入れるお金がないというのと同じで、家族や家を手に入れたら、そこに入れる愛情がないという愚かしい状態なのだ。そんな中で、子供たちだけが変わっていく。

ひとを責めたり、ひとに何かを求めたりするのではなく、まず自分がひとを愛することのできる人間になろうとする。この転回こそは、まさに「さとり」と名づけていいものかもしれない。(P.167)

大人こそが反省して、この悟りに到達すべきだ。社会が、会社が、家族がと言い訳ばかりするのではなく。