新版 児童の権利条約

この条約を実施するためには、新たな予算措置は不要である。(P.284:平成5年の外務省による同条約の説明書の最終項)

タイトルに新版と着いているものの、かれこれ15年近く前の本。
改めて、これを読むと、条約は締結もされ、批准もされているのになんら実行を持たないということを痛切に感じる。そもそも、「予算措置は不要」と言い切った時点で、子どもという人々にとっての失われた15年となったのだろう。積極的に予算措置をすべきたっだのである。そうしていれば、今のアドホックな子育て関連予算などという無用な支出はなかっただろう。

さておき、15年間で完膚なきまでに失われたものはたくさんあるが、遊びと自主性を奪われた子どもというのは飢餓と戦争の恐怖がない子どもよりはましなのだろうが、国家の未来を担う人材のありようとして不健全となったことは否めない。
そして、同条約が批准されたこのころより、すでに指摘されてきたことだ。

子どもは間違いながら成長していく。「間違い」は学習の基本であると思う。(P.59)

で、

自主性とは、大人に「教えられる」ものではなく、子ども自身の試行錯誤の中から芽ばえ、鍛えられていくものでなければならない。そういう試行錯誤だけは、大人に提供されるサービスとしては、仮にいくらお金を出しても買えないのである。(P.88)

ということは知られているが

子どもの遊びまでが、大人の管理やお節介による代替的な文化サービスに変容してきている(P.79)

のが、現在では徹底的に行きつくしている。ひどい話になれば、親が指示してカードを使うビデオゲームをやらせている始末。とはいえ、消費者として育て上げられた親には

細分化した大人によるサービスを雨あられと浴びせることは、子どもたちを結局は「お客」という、一見有利ではあるが受動的立場におとしめてしまう(P.82)

という事実は見えていないのだろう。金を払う自分がえらいと思っているのだから。まずはこういう状況を打破するべく、教育なり消費なりのありようを、適切に予算措置を持って変えていかなければ、まさに日本は批准したけれども、まったく本条約を履行する意志のない無法国家といわれても仕方がない。とはいえ、国に頼ることだけではない。親である自分、労働者という名のサービス提供者である自分ということを自覚し、十分にその条約の履行に寄与できる立場だと自覚すべきなのだ。

大人による細分化されたサービスの受容者という立場から、子どもたちは開放されなければならない。(P.94)