方法序説・情念論

今年最後の読了本。あー、こういうヘビーなものを目を通すから、読書計画が手間取るんだろうなぁと。
それはさておき、本書は、デカルトの教科書にも出てくる「われ思う、ゆえにわれあり」で有名な「方法序説」と、情念と行動の関係をじっくり省察して自分の方法論で纏め上げた「情念論」、そして、それらについての書簡での議論をまとめた「書簡集」からなる、文庫とはいえ贅沢な一冊。

デカルトの自然把握の基礎となるのは吟味する問題のおのおのを、できるかぎり多くの、しかもその問題を最もよく解くために必要なだけの数の、小部分に分かつこと(P.27)という部分から全体を省察していく手法であり現代科学の基礎とも言える。と同時に神の完全性を信じ、確率に対してはあらゆる原因を知り尽くしていないということにもとづいているだけである(P.205:偶然の運について)という無知主義を採用している。これについて、議論をここでは深めないけど、ある思想の潮流のはじめが1600年代の昔にさかのぼれるというのは改めて驚かされる。

デカルトは、こうした手法を生き方にまで発展させ、人は基本的に善であると考えることが優れたことで、精神の強さだけでは十分ではなく、真理の認識も必要であること(P.135)を考慮すると、人がしくじったときには人を責めるよりは、ゆるすほうに傾き、他人があやまちをおかすのは、善き意思の欠如によるよりはむしろ、認識の欠如によると考えることに傾く(P.214)ことが優れた人物のありようととく。わが身を振り返り、やや反省。

何度読んでも新たな発見がある名著である。しかし、なぜ教科書は「思う」という漠たる表現を採用しているのだろうか。やはり、このデカルトのありようからすると
私は考える、ゆえに私はある(P.43)
という訳語がもっとも適切な表現と思われる。