自治の学校
就職試験に料理をって言う、友人のBLOGに触発されて思っていたことを書く。
社会人の本分は仕事で、学生の本分は学業って言い方を良くする。これ自体にさほど異論はないんだけど、本分さえこなしていればなんでも良いのかっていうことがとっても気になったりする。
最近自分のBLOGの中で、家庭のあり方を通じて、人が生きていくということについては「仕事(=本分)」と「地域(≒自治)」と「家庭(≒家事)」の3本柱で成り立っている、と主張してきている。
本分さえこなせばいいということは、本来生きていくうえでありえなくて、一個人であったとしても、それぞれ出来ないといけないわけだ。家庭というのは我が身そのものの保持であり、地域とは我が身を生かす社会システムの保持である。この二つが会って初めて、本分という話が成り立つ。
そういう意味(友人のBLOGとは違う文脈だけど)でも、就職試験において、その人の家事能力を測定するという意味でも悪くはない。3本で人が立っている以上、一本でもおろそかであれば、どこかで本分であるべき仕事でも支障をきたすはずだ。
ただ、現実問題、こいつを就職試験に課すと多くの輩が「本分(過去の本分である学業、今後の本分である仕事)でもないものを試験課題にするのは不公平だ」とかほざくんだろうなと思う。
何でこんなことになったのかなぁと思うと、やっぱり受験戦争以後の教育環境が宜しくないんだろうなぁと。
親は子に「本分だけに集中しなさい家事なぞやるな」と、先生は生徒に「本分だけの集中しなさい自治なぞするな」と。で、まぁ、お手伝いをさせない親が悪いといわれがちなんだけど、実は、学校の重要な機能である「自治の学校」を実践していない学校のいかに多いことか。いわば、家事をさせない親も悪いけど、自治の練習をさせない学校も悪い。
いわば、人間とは、家庭と地域という生きための基本機能を抜きにして、本分だけやる実態から遊離した存在たれというわけだ。
最近は躾やら学級崩壊やらの流れで、家事は家庭の領域で、明らかに家庭の責務として扱われているわけだが(最近は食育だのとかいうことで内容を奪われているが)、自治の教育は誰の責務かは意外と忘れられがちだ。
それは学校の仕事のはずだ。だからこそ、大は児童会、生徒会といった自治機構があるし、小は美化係だの図書係だの日直だのというのがあるわけだ。最近、こうした活動はどんどん衰退している、というか有名無実化して、ほとんど機能していない。そうして育った世代が我々で見事に各種の係をやらない。当然子供にやらせない。もっと言えば、この世代が先生だからやらないことについて、変に理解がある。
家庭は家事の学校であるが、学校は自治の学校でもあるはずだ。生きるために必要な2機能をちゃんと教えないといけない。学業は学生の本分だが、社会に進むための訓練所であることも確かだ。であれば、自治の訓練をしっかりすべき場所であるのだ。ペーパーテストでいい点数をとることなど、自治を理解した人間を作り出すことの前では二の次であるべきだ。
民主主義社会で必要なのは、勉強が出来るいい政治家や官僚を作ることじゃない。毎日の生活の中で、地道に自治を行える人間を生み出すことだ。政治と行政は一部の人間の仕事だが、自治は全員の仕事であり、政治も行政もその一部に過ぎない。
家事を教えて社会に出す家庭の再建も大事だけれど、こういう視点での自治の学校の再建も重要である。教育再生で幾つかの問題が解けるだの解けないだの大騒ぎするのも結構だが、こういう観点からしっかりと家事のできる家庭人であり、かつ自治を出来る地域人を作ってもらいたいものである。