内紛よりも選挙民の気持ちを考えよ

かの白洲次郎のエッセイ集である「プリンシプルのない日本」に出てきた一節である。
最近、組織内外の大小の選挙にかかわることが増えてきたが、この言葉はまさにそのとおりである。

最もこの観点で、今、非難したいのは我が故郷の市長選挙のごたごたがそれである。
私はすでに同地の選挙民でもなければ、各派閥、各陣営とも、顔見知りはいるものの選挙という点では無縁であるのであえて書かせていただく。
この市長選で、一度はいわゆる保守陣営からは清冽な2名の若人が立起した。1名は前回の市長選挙戦で数百票の僅差までいった人物。もう1名は市議会議員選でトップ当選の人物。若いとはいえ、市の舵取りの信託を受けるに足る人物にほかならない。また、故郷の友人知人に聞く限りにおいても、この選挙に期待する声は大きかったのは確かだ。

が、自由民主党は信じられぬ愚行を犯した。なんと、市民に支持をされ自主的に立起した両名を無視し、密室で選考した市民の支持もろくにないどこの馬の骨とも知らぬ候補を立てたのだ。挙句に、この候補を統一候補だのと騒ぎ立て、1名を出馬辞退、もう1名を離党へと追い込んだ。まさに「内紛よりも選挙民の気持ちを考えよ」といわねばならぬの事態である。この内紛に選挙民は呆れ、今故郷に帰れば大半が白けムードである。

白洲はこんな状況をどう思うんだろう。まぁ、天下国家を論じてきた彼には一地方の首長選挙なんか小さなことなのかも知れない。
しかし、戦後、戦争を主導する発言をしてきた政治家が改めて出てくることを非難し、弱腰外交であってもプリンシプルを通すことを主張してきた彼にしてみれば、ここの自民党のやりようは恥ずべき状態だ。大体もってバブル期に無策に公共事業誘致ばかりし健全な経済の構築をせず、教育において偏差値教育を無意味に推し進め、子どもが夢も持てない地域政治を作ってきた戦犯ともいえる政治関係者が何時までも地方政治にしがみつき、加えて、外圧があっての弱腰でやむを得ず調整候補を出すならいざ知らず、外圧も無くほうっておけばプリンシプルの通る選挙戦が出来る所を、意味も無くプリンシプルを曲げる政党や政治関係者たち。

いったい、白洲次郎を抱擁した吉田茂他の大政治家を輩出してきた自由民主党はどこへ行ってしまったのだ。自由民主党は戦後の混乱から国家を組み立てる課程で、いったい何をしてきたのだ。全く持って「プリンシプルのない日本」であり、その相似系の「プリンシプルのない地方」である。

このプリンシプルなく、選挙民の気持ちより内紛を優先するという事態に対して審判を下すのは選挙民である。この審判を適切に下せなければそれは選挙民自体の責であり、自民党の責ではないということになる。自分の故郷の人たちに適切な審判を下す理性があることを信じたい所だ。