外郭の独立法人は本当に不要なのか

変な話、このテーマは旧政権の時から、与野党問わず外郭の団体不要論が多々あるんだけれど、いざ分かりやすい外郭団体吊るし上げ潰し作業が進んでくると、天邪鬼な僕としてはそれで本当にいいのかとか疑問に思うわけだ。
確かに、税でやることというのは、議会を毎度毎度通して、年度計画通りに進めていくことが重要なのは確か。それでこそ、民意による富の再分配が保障されるわけだ。この原則論でいくと、当然外郭団体なんか要らない。もっというと、特別会計の事業ってのも不要になるように思う。

他方で、NPOのような独立した公益団体が、独立した財源で独立した活動をして公益を埋めるというのもある。ここには年度予算主義ではなく、逐次支出も可能というメリットがある。その分、ある面においての、不公平な富の再分配機構として機能する。
しかし、こうした公益のセーフティーネットがあるからこそ、トータルでの公益が保障されるので、全体としては公平な富の再分配だという考え方も出来なくはない。

で、日本においては残念ながら、こうした不公平な公益機関というのはそれほど育っていないし、そのため逐次支出可能な機構もない。とすると、コンセンサスをとっている中で、そうした逐次支出のバッファーとして、こうした外郭団体を作り、そういう特殊な公益提供をする必要性は、存在しているように思う。
子どもは、計画通りに生まれてこないし、障害やら病気ってのも計画通り発生したり治ったりするわけではない。当然、死だって計画通りに死ぬわけではない。そういう中の公益提供機構として、年度計画でしか動かせない予算体系で何でも出来るという、恐ろしい取り扱いは、無理だと思う。

それが可能になるためには、唯一つ。お上意識がなくなり、寄付文化が充分広まり、税以外の公益の受け皿がしっかり成長し、それに合わせて充分に政府が行う公益が充分に縮小するということ。
今の日本の公益システムにおいて、外郭の独立法人(財団でも何でも)は必要といわざるを得ないのではないか。
大切なのは、外郭独立法人だから悪い、という議論ではなく、どういう外郭を作ってどういうバッファーの用意が必要かという建設的な議論だ。今のままでは、単に使い勝手の悪い公益機構としての国家が生まれるだけのような気がする。