一般市民という幻想

最近、大学に行ったり、NPOを支援したりしながら思うのだが、「一般市民」ってだれだ?とか思うわけだ。
何で思うかといえば、学内情報誌を編集しているとお国の政策なんかで、一般市民の科学技術への理解向上だのアウトリーチなど聞くし、NPOに関しても、多くのサービスは広く一般市民に向けて行われるべき、なんていうわけだ。
大学のほうの議論なんかを聞いて思うのだが、大学の先生にしても事務にしても、家に帰りゃ、一般市民なんじゃないのと。NPOの議論なんかを聞いて思うのが、企業人だって、官僚だって、おうちに帰れば、やっぱり一般市民なんじゃないのと。
要は、何を言いたいのかというと、ある面で人間は全員一般市民だし、ある面で常に何らかの立場や履歴を持つ以上、全員一般市民ではない、ということになる。
その立場ではないがゆえ(もしくはあるがゆえ)に、知らないことや、出来ないことってのは確かにある。でも、一般市民全部を通して共通に知らないことや出来ないことってのはない(空は飛べないか(^^;)。
そう考えると政策でも、活動でも大事なことは何かといえば、自分も相手も一般市民であるという自覚と同時に、自分も相手も特殊な立場を持つ一般市民ではない何かであるという相互理解に思い至ることである。

僕が尊敬する地域で活躍する活動家にこういうことを言う人がいる。
「対立が発生しているときの説得方法は簡単だ。あなたは同じ地域人じゃないか。立場を棄てて、一度地域人として話をしよう。と問えばいい。で、その結果を踏まえて、企業人なり役人になってできることをすれば良いだけ」
一般市民≒地域人ととらえると、彼の言葉は至言だ。ただし、簡単に立場を棄てて、一般市民として話し合うのは大変困難ではある。しかし、お互いにそれをなすことができれば、それだけでことは済むのだ。彼曰く、こっちがちゃんと兜を脱げば、相手は人間、ちゃんと向こうも兜は普通脱いでくれるもの。だと。(脱がない奴は、もう本物の企業人とか役人なので、地域人ではないとあきらめるとか。)
政治でも何でも、一般市民に特別何かするなどというおこがましいことを考える必要はない。いつでも、こちらが立場という鎧兜を脱ぐ準備をしていれば済むだけのことでしかないのだ。

大上段に構えて何かやる前にこの心構えは忘れずに持っていたい。