愚衆愚民

いや、僕が選民で優秀という意味合いのタイトルではない。

僕は民間向けのコンサルティングサービスを売りに人生やっているわけなんだけど、最近のお仕事はなぜか公的セクターばかり。そこで、最近はやりのキーワードが立法や行政への住民参画。

まぁ、大体、こういうことをやると、担当の自治体職員が単純にサンドバッグになって終わるだけ。その構図は、結構どうかなぁと思うことが多い。住民の声を拾って反映といっても、一口では難しく結構、専門的な知識が要求される。とはいえ、科学的知見というのはマックスウェーバーが言うように同じ手続きをきちんと踏めば十分に理解し利用できるようになるものだ。

やはり、それぞれの政策に提言をするなら、それ相応の知見は持つべきだし、その学習は怠ってはならないはずである。怠った挙句に出てくる発言が「(われわれは、愚昧なる者でそういう知識はもたないのだから)そういう専門的なことは専門家が話し合って決めてくれ」というもの。だったら住民は参画する必要はないし、参画しても政策に反映しようもないし、参画を求める必要もないはずである。

反映しようもない、文句だけをドカドカぶつけて、仕上がった条例は、住民の声を反映していないので、また担当者はドカドカとやられる。まさに人間サンドバッグである。今日もまた一人、僕の目の前(というか、ネット越し)で、そういう犠牲者が増えていく(笑)

国民主権の日本ですべての権利と義務を持つのは国民である。国家運営、自治体運営は国民が等しく持つ義務であり権利でもある。すべての権限は国民一人一人が等しく持っている。
が、その中から必要に応じて、委譲するものは委譲すべきだ。僕らがすべてのことの意思決定できるわけではないし、すべての専門性のあることを学びきれるわけではない。だが、その委譲した権利を再び取り上げる、もしくはその内容について干渉するなら、そこに発生する「学習するという責任」から、愚衆愚民を盾にして逃げてはいけないのである。住民自治とはそういうことなのである。